私は仏教徒ではありませんが、
仏教が大好きです。
仏教の教えの中で、
私が大変気に入っておりますのは、
「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」
という教えです。
「自灯明・法灯明」は、
「自分をよりどころとし、正しい教えをよりどころとすること」
という意味で、
私は、自分の生き方の基本的な考え方として、
取り入れさせていただいております。
※「自灯明・法灯明」に関しましては、
以前、記事にさせていただいております。
皆様に許すお時間があり、お読みいただけたら幸いです。
このほかにも、私は、仏教の教えの多くに共感し、
お導きをいただいてきたと思っております。
しかし、私には、
「仏教の教えのすべてに頷いているわけではない」
という本心があります。
また、私がこのような本心をもっていても、
仏教が、私から去って行ってしまったことはなく、
去って行きそうな気配すら感じたこともないまま、
今日を迎えております。
それで私は、本心を偽る必要もなく、
安心して、仏教を好きでいられます。
この私の気持ちをますます安心させてくださるようなお話が、
『歎異抄(たんにしょう)』という本に書かれています。
※ご存知の方もいらっしゃることと存じますが、
『歎異抄(たんにしょう)』は、
著したもので、東洋の聖書とも言われています。
この『歎異抄』の第九条に、
唯円が「念仏を唱えても喜ぶ気持ちが湧いてこないのはなぜか」
と本心を打ち明け、
それに対して、親鸞聖人が答える場面が出てきます。
(現代語訳でご紹介させていただきます。)
「念仏を申しておりましても、おどりあがるような喜びがありません。また、急いで浄土へまいりたいという心もおこりません。これはいったいどうしたことでしょうか」とたずねました。すると親鸞聖人は、「実はわたしも同じような疑問をいだいていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ思いをもっていたのですね」といわれて……(『歎異抄』角川学芸出版P85)
「念仏を申しておりましても、おどりあがるような喜びがありません」
と言えてしまう、
こんなに「本心でかまわない」仏教が、
私は大好きなのです。
喜べないのは煩悩のしわざであり、
「阿弥陀さまは、そのようなわたしであることをはじめから知って
おられ……」
と答えていらっしゃいました。
この、唯円が本心を打ち明ける第九条よりも前の、
第一条に「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という言葉があります。
摂取不捨とは、単に仏がおさめとって見捨てないということではない。親鸞は『浄土和讃』の中で、仏に背をむけて逃げるものを、どこまでも追いかけて、ひとたびとらえると、決してはなさないことであるといっている。
と書かれています。
繰り返しますが、
「摂取不捨」とは、阿弥陀様が、
「仏に背をむけて逃げるものを、どこまでも追いかけて、
ひとたびとらえると、決してはなさないこと」
という意味だと書かれています。
阿弥陀さまは、
人間に深い煩悩があることを十分ご承知で、
人間とはそういうものであるからこそ「救いが必要」なのであり、
だから、「(救いを必要とする)すべての衆生を救う」
という誓願を立ててくださった方です。
人が、「この誓願は、煩悩深き自分のために立てられたものだ」
と深く頷き、
その人に、「念仏しよう」という思いが「自然に」湧きあがったなら、
それが、阿弥陀さまがその人を救うために、
「とらえて、決してはなさない」
という合図になるようです(と、私は解釈しています)。
私は、仏・阿弥陀さまの救いなくして、
今日の私はなかっただろう、と思っている私です。
しかし、仏教に出会い、念仏に出会い、
仏の慈悲に触れてもなお、
「仏教の教えのすべてに頷いているわけではない」
とも思っている私です。
このような私に、
「仏教が好き」という思いが一度も消えたことがないのは、
仏の「ひとたびとらえると、決してはなさない」
という慈悲・恩恵をいただいているからなのではないか、
と思っています。
私の、仏教が大好きな理由は、
この度申し上げたことがすべてではありませんが、
理由の中でも大きいものを述べさせていただきました。
私の、仏教が大好きな理由をもう一度、
箇条書きにさせていただきますと、次のようになります。
・本心でかまわない(むしろ、本心がいい)
・(どのような本心をもっていても)私から去って行かない
・背をむけて逃げる私をどこまでも追いかけて、とらえ、
決してはなさないでくれる
因みに、私が仏教の教えで頷くことができない箇所というのは、
私が理解できないだけ、という可能性が大いにあり、
「まだ、結論が出ていない」ということでもあります。
ひっかかる点に、
「これはどういうことだろう?」
「そういうものかなぁ?」と、
これまで通り、問い続けたいと思っております。
そして、納得できたときは、
素直に頷きたいと思っております。
※「念仏」については、またの機会に記事にさせていただけたらと
思っております。
※2018年3月22日に、下記に『「念仏」ついて。』の記事を
貼らせていただきました。
合わせてお読みいただけたら幸いです。
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
引用文献