「つくべき縁」「離れるべき縁」について。
先月(3月)から今月にかけて、
卒業式、入学式・入社式などがある春の訪れとともに、
「別れ」と「出会い」という言葉を
何度か見聞きいたしておりました。
また、私の前回の記事では、
皆様の温かいまなざしを感じ、
仏教が大好きな私としては、とても嬉しい気持ちになり、
ありがたく思っておりました。
このような思いがあいまって、
私は、『歎異抄』の中に出てくる言葉、
「つくべき縁」「離れるべき縁」が脳裏に浮かんでおりました。
そこで、今回の記事は、そのような縁に関することで、
私の思っていることを書かせていただきたいと思います。
親鸞聖人が、
「つくべき縁」「離れるべき縁」について語られたことを、
『歎異抄』の第六条に記しています。
現代語訳等でご紹介させていただきます。)
親鸞聖人がこの縁について語られたのには、
次のような背景がありました。
親鸞の教えに共感して念仏する人が多くなると、親鸞を師と仰ぐ直弟子と、直弟子を師とする孫弟子も生まれ、やがて、わが弟子、ひとの弟子というような、わけへだてをして争うなど、さまざまな問題が発生した。
このような事態に直面して、親鸞は、師匠とはなにか、弟子とはなにかと、あらためて自らに問いかけた。
そして、そうだ、自分には弟子は一人もいなかったのだ、すべて阿弥陀仏の弟子であり、念仏者は、みな、ことごとく、同じ浄土への道を歩む同行なのだと、気づかされたのであった。(P22,23)
そして、『歎異抄』第六条によれば、
親鸞聖人は、次のようにおっしゃっていたそうです。
この親鸞は、弟子は一人ももっておりません。……(略)……
人は、つくべき縁があれば、共につれそい、離れるべき縁があれば別れることもあります。それゆえ、今までの師匠にそむいて他の人にしたがって念仏するものは、浄土に生まれることができない、などというのは、決して言ってはならないことです。その人に阿弥陀さまからくださった信心を、自分があたえたものであるかのように思い、とりかえそうとでもいうのでしょうか……(P87,83)
また、「念仏する」という行為も、
人が誰かにさせるものではなく、
阿弥陀さまがそうさせてくださるものなのだ、
と思っていた方でした。
ですので、
(実際には、親鸞聖人にはたくさんのお弟子さんがいましたし、
親鸞聖人には、
「自分に弟子がいるという意識はなかった」とそうです。
お互いを、
「念仏をとなえる者同士」「阿弥陀さまに救われる者同士」
としか思わず、
「友」とか、「同胞」、「同行」と思っていたようです。
(『親鸞! 感動の人生学』山崎龍明氏(P198)等を参照)。
私は、「自分がよいと思ったことをすすめる」
というのは、(押し付けでない限り、)
いいことだと思っています。
そしてもちろん、
「自分がよいと思ったことをすすめてもそれをしない人」とか、
「自分とは違う考え方をする人の方へ行ってしまった人」とか、
そういう相手に憤るような方には、私は仏教者を感じません。
また、「弟子をごっそり持って行かれた」と憤り、
「取り返そう」と躍起になる方にも、
同じく、仏教者を感じません。
親鸞聖人は、
いずれ誰もが阿弥陀さまに救われるのだから、
弟子を奪い合う必要などないし、
むしろ、弟子を「自分のもの」のように思うことがおかしい、
とおっしゃっているのだと思います。
そして、この『歎異抄』にでてくるお話は、
私たちの日常の中にある「別れ」と「出会い」にも、
同じようなことが言えるのではないか、と私は思います。
ある人が、自分と同じ道を歩むのか、自分と違う道を歩むのか、
それは「ご縁」を抜きにして考えられるものではなく、
「つくべき縁」があって、
お互いに同じ道を歩もうと思い合えればそれを喜び、
「離れるべき縁」があって、
自分と違う道を選んでいった方がいれば、
その方にもちゃんと救いがあることを信じる、
というのが、「ちょうどいい心持ち」のように思います。
そして私は、ここで、もう一つ、
申し上げたいと思うことがあります。
ご存知の方も多いかもしれませんが、
仏教の言葉であり、日常でも用いられている、
「四苦八苦(しくはっく)」という言葉がありますが、
これは、「四つ」の苦しみに、もう「四つ」苦しみがあって、
合計「八つ」の苦しみが説かれたものです。
〈ごく簡単に説明をさせていただきます。〉
生(しょう):生まれる苦しみ
老(ろう):老いる苦しみ
病(びょう):病気になる苦しみ
死(し):死ぬ苦しみ
愛別離苦(あいべつりく):愛するものと別れなければならない苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく):厭なものと会わなければならない苦しみ
求不得苦(ぐふとっく):求めているものが手に入らない苦しみ
五陰盛苦(ごおんじょうく):心身があるために煩悩が生ずる苦しみ
(『ブッダの教えがわかる本』P116~117参照)。
どちらも苦しいことだと思います。
そして、(上記で太字にした)
「愛別離苦」=「愛するものと別れなければならない苦しみ」も、
もちろん、とても苦しいことだと思います。
しかし、
「愛していて、別れたくない」と思えるような人に出会えた人生は、
実は、とても素晴らしい人生だ、と私は思います。
人生に、そういう、
愛する人が登場したことの「幸せ・喜び」もあることを、
見落としたくない、
苦しみ・悲しみのために忘れてしまうことのないようにしたい、
と私は思うのです。
そして、だからこそ、
「つくべき縁」「離れるべき縁」があるとしても、
離れたくないならば、「離れたくない」と思って、言って、
いいのだと思います。
「会いたい」と言って、いいのだと思います。
「会いたい」「また会いたい」「離れたくない」
という方とすでに出会っている方も、
これから出会うという方も、
「とても素晴らしい人生」であることに、
どうか、「喜ぶこと」を、お忘れなく!!
と私は思っております。
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
引用・参考文献