世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「悪人正機(あくにんしょうき)」について。

私の好きな本の一つに、『歎異抄(たんにしょう)』があります。

 

歎異抄』は、親鸞聖人の説いた教えが、世の中に、

なって伝わってしまっていることをいた(なげいた)、

親鸞聖人の弟子・唯円(ゆいえん)が著したもので、

「東洋の聖書」とも言われているそうです。

 

私は、以前『「信じること」について①。』というタイトルのブログを

書かせていただきました。

そこでは、『歎異抄』第二条の訳文を抜粋しながら、

「たとえ法然上人にだまされて……、地獄に堕ちたとしても、私にはなんの後悔もありません」

という、親鸞聖人の、法然上人に対して抱いた思い、

これこそが「人が、人を信じる」ということだと私は確信した、

と述べさせていただきました。

 

私は、法然上人と親鸞聖人の「言葉の往来」や「関係性」

といったものに美しさを感じています。

 

そして、今日は、法然上人が説いた教えであり、

親鸞聖人がその教えを発展させたといわれている

悪人正機」という教えについて、

親鸞! 感動の人生学』を中心的参考書にして、

述べさせていただきたいと思います。

 

因みに、「悪人正機」という言葉は、後に学者(了祥)が名づけた

もので、法然上人や親鸞聖人が用いた言葉ではないそうです

(『仏教の再生―親鸞・不退への道』P52より)。

 

歎異抄』第三条は、「悪人正機(章)」と呼ばれ、

「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」(原文)

とはじまります。

 

この訳文は、

「善人が阿弥陀仏の教えによって救われるのだから、まして、

できの悪い私などが阿弥陀仏の教えによって救われるのは

当然といえます」

となっています。

 

これは、

「悪人が救われるのだから、善人が救われるのは当然だ」ではなくて、

「善人が救われるのだから、悪人が救われるのは当然だ」とあり、

一般的ではない考え方になると思います。

 

そして、ここから導かれる「悪人こそ、(阿弥陀仏に)救われる」

というのが、「悪人正機」の意味になります。

 

但し、阿弥陀仏は、すべての衆生を救うとお決めになった方です。

ですので、人間は誰もが煩悩や悪人的要素をもっているから、

阿弥陀仏の救いの対象は、すべての人間であると考えることができる

と思います。

 

そして、つまり、阿弥陀仏は、

「善人」を名乗る人よりも、

「自分はダメ人間でどうしようもない」

「自分は悪人だから救われようがない」

というような、

「悪人の自覚をした人」を大優先で、救済する

とおっしゃっているわけです。

 

かつての親鸞聖人は、

すばらしいとされる教えを聴き、

さまざまな修行を試みていらっしゃいました。

 

しかし、いっこうに、

気持ちが晴れてきませんし、救われた気にもならなかったそうです。

もちろん、さとりも開けませんでした。

 

そして、(私なりの表現にさせていただきますが)

「私は愚かだ。怒るし、妬むし、恨むし、奪うし、驕るし、疑うし……

自分の煩悩が手に負えない。

「善」なんて、とうてい、できやしない。

「善」が何だかもわからない。

このような私が、法然上人に出会えた。

そして、阿弥陀仏に出会えた。

煩悩まみれの、罪深い悪人たる私は、

阿弥陀仏の本願(苦しみ迷う一切の衆生を救う誓願)に頼るしかない。

私のような愚か者を救うという本願を打ち立てた、あの阿弥陀仏に、

自分のすべてを委ねることしか、私が救われる道はない」

と、親鸞聖人は思われたようです。

 

(因みに、「阿弥陀仏の本願に頼る」ことは、「他力本願」と

呼ばれますが、ここにいう「他力」とは「阿弥陀仏の力」のこと

であり、「他人の力」という意味ではないことになります。)

 

本来、法然上人や親鸞聖人がのこしてくださった言葉は、

どのような時代に言われたことなのかを加味するべきですが、

私は、時代に関係のないところで、人間に、

自分の煩悩や悪人的要素の自覚を促しているのが「悪人正機

という教えなのだろうと思っています。

 

しかし、自分自身の悪いところに気がついた人間が、

「救われる教え」でもあるのが、「悪人正機」なのだろうと思います。

 

また、念のために申し上げれば、悪人の自覚をしたことで、

それに則り、わざわざ悪いことをすることは、

どなたもすすめてはいません。

そのような曲解がなされたことを、唯円は歎いたわけです。

 

私は読んではいないのですが、評論家の林田茂雄さんという方が、

親鸞―智慧と勇気の教師』(P18 岩崎書店)という本の中で、

親鸞聖人の「悪人」の救いについて、次のように説いている箇所があるそうです。

「……そのころの仏教の先生がたは、ほしがらないことが善で、ほしがることが悪だとおしえます。いいかえれば、人間の本音をごまかして、うその顔をつくってみせる者のことを善人とよび、人間の本性にしたがって正直な要求をおしだしていく者のことを悪人とよんだのです。そこで親鸞は考えました。〈うそつきのほうが仏さまにかわいがられて、正直もののほうが仏さまにきらわれるなんて、そんなばかな話があるだろうか〉と」(『ポケット 親鸞の教え』P103より)。

 

自分を善い人と思いたいばかりに、

また、自分の悪いところに気づきたくないばかりに、

本性に気づいていない振りをすることが、

一番、救われないのかもしれない、と思えてきます。

 

何が善で、何が悪か、人それぞれであると思いますが、

今まで、自分が「善」であると思っていたことが、

実は「悪」であったということも起こり得ることを、

十分心得ておかなければ、

「悪人になれない」(悪人の自覚をもてない)、

ということになるのかもしれません。

 

また、私は、自分の心にうそがつけない親鸞聖人を

「悪人」とは思えないですから、やはり、

「他人」がどう思うかではなく、

「自分」がどう思うか、の「自覚」の問題なのだろうと思います。

 

さらに、親鸞聖人は、「自力の修行」で救われようというのでは、

阿弥陀仏の力」への「頼り方が足りない」とお考えのようです。

 

しかし、私は、「自分でできることは、自分でしようとする」

というのもいいことだと思っています。

 

私の勝手な言い分かもしれませんが、

「自分一人で何でもできると思っているのではなくて、

自分自身の努力で、何とかできることがあるならば、それについては、

わざわざ阿弥陀様のお手を煩わせることもないだろう」

という意味での「自力」であるならば、

「頼り方が足りない」には該当しない、と思っています。

 

いずれにしても、

私には、自分で未だ気づいていない悪いところがあると思います。

はやく、気づきたいです。

 

今のままの私が阿弥陀仏に救われるのは、

すでに自分の悪いところに気づいている方々よりも、

「ずっと後」になりますね。

 

 

念のため、『親鸞! 感動の人生学』(P94.95)にある

歎異抄』第三条の訳文を以下に掲載しておきます。

  善人が阿弥陀仏の教えによって救われるのだから、まして、できの悪い私などが阿弥陀仏の教えなどによって救われるのは当然といえます。ところが、世間の常識に従って生きていく人々は、「できの悪い者、煩悩深き者が阿弥陀仏の教えによって救われていくのだから、善い人間が救われていくのは当然のことである」と考えています。なるほど、この考えは一応道理にあっているようですが、実は阿弥陀仏の根本精神に反しているといえます。

 なぜなら、自力の修行で救われようとしている人々には、阿弥陀仏の救済力(本願力)をよりどころとするという気持ちはまったくありません。したがって、すべてのこころ貧しき者をこそ救うと誓った阿弥陀仏の精神にそぐわないのです。しかし、そのような自力の善根の力で救われると考えている人々も、その自力至上のこころをあらためて、阿弥陀仏の広大な世界に生きるならば、かならずいのちの迷い(闇)が破られ、真実の世界に生まれることができるでしょう。

 欲と怒りと愚かさで一杯で、いずれの行によっても自らの力で迷いの世界を超えることができない、こころ貧しき私たち人間のすがたを悲しまれて阿弥陀仏は人間救済の願いをおこしたのです。阿弥陀仏の目的が悪なる者、罪業深き者の救いにあるのですから、その阿弥陀仏のはたらき(本願力)をよりどころとする、悪なる者こそが阿弥陀仏の本願のこころにかなった、正しい救いの因(たね)なのです。

 したがって、善なる者が救われるのだから、まして悪なる者が救われるのは、いうまでもありません、と(法然上人が)仰せになりました。

 

 

お読みくださいまして、どうもありがとうございました。

 

引用・参考文献

・『親鸞! 感動の人生学』山崎龍明 中経出版

  親鸞! 感動の人生学 (中経の文庫)

・『仏教の再生―親鸞・不退への道』山崎龍明 大法輪閣

  仏教の再生―親鸞・不退への道

・『ポケット 親鸞の教え』山崎龍明 中経出版

  ポケット 親鸞の教え (中経の文庫)

・『歎異抄千葉乗隆 角川学芸出版

  新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)