「お知らせ」と、「健康と病気について」。
本日は、「お知らせ」と、「健康と病気について」の、
2つのことをお話させていただきたいと思います。
まず、「お知らせ」から。
私は、来週から、
入院及び手術をする予定がございまして、
少しの間(約1箇月間を見込んでおります)、
当ブログをお休みさせていただくことにいたしました。
皆様のブログへは、
6月5日(日曜日)まで、
訪問させていただきたいと思っております。
ブログを再開できるようになりましたら、
当ブログでご報告させていただきたいと思っております。
復帰後、皆様のご無理のない中で、
再び、当ブログにお付き合いいただけたら幸いでございます。
因みに、私の病名は、
「卵巣腫瘍(らんそうしゅよう)」です。
左の卵巣に「しこり」があります。
毎年、婦人科検診を受けておりましたが、
容易に発見しにくいこともあるようで、
腹部に圧迫感がある、腹痛など、
自覚症状が出てから受診して、
発見に至りました。
自分の身にこのようなことが起きて、
初めて知りましたが、
卵巣にできた「しこり」が、
「良性」の場合を「卵巣嚢腫(らんそうのうしゅ)」と呼び、
「悪性」の場合を「卵巣がん」と呼ぶようです。
私が受けた検査のうち、
腫瘍マーカー(血液検査)の値が正常値を超えたため、
悪性の可能性が出てきました。
しかし、その他の検査とあわせ、総合的に考えると、
良性の可能性が高い、という医師の診断をいただいております。
このように、手術するまで、
「良性」か「悪性」か、はっきりと判断できない場合、
「卵巣腫瘍」(←私についた病名)となるそうです。
私自身の現状は、
時々、腹痛がある程度で、
腹痛のない時間のほうが圧倒的に多く、
気持ちが滅入ることもなく、
食欲が落ちることもなく、
外見上、「元気」にしか見えないだろう、
という感じです。
ただ、左の卵巣と、
もうすぐお別れなのだな、
ということが、寂しいです。
そして、もし、私の受けたストレスを、
左の卵巣とそのしこりが引き受けてくれていたのだとしたら、
と思うと、申し訳ない気持ち、ありがたい気持ち、
両方の気持ちになりました。
これまで、私のからだの中で、
私を支えてくれていたわけですが、
今後は、手術によって、
私のからだの外へ出ることによって、
これからの私を支えてくれることになります。
やはり、ありがたいです。
そして今日、お話しようと思っていた2つ目のことですが、
自分が病気になった、手術するのだ、
というふうになってから、
以前大学で、『生命倫理の現在』という本を教科書にして、
「健康と病気について」
というレポートを書いたことを思い出しました。
レポートの下書きが残っていましたので、読み返しました。
そして、
わかっていたような気もするのですが、
忘れていたような気もすることがありましたので、
改めて、「今後も、忘れずに覚えておこう」という趣旨で、
箇条書きにして、こちらに載せておくことにしました。
- 人間は健康を求めることとは裏腹に、病気と縁が切れない矛盾を背負った存在である。
- 人は、矛盾を背負った存在であることを、了解しなければならない。
- 病気と健康は隣接しており、一つのカラーのグラデーションの中を、行ったり来たりするような「一つ」の中の柔軟な対立関係にある。
- 健康と病気は、別々のものではなく、相対的で、共存的な関係でもある。
-
(フランスの科学哲学者カンギレムによると、)
基準を固定化せず、環境に適応していくことができることが健康、
基準を固定化し、環境に適応することができないことが病気である。
また、先ほどの『生命倫理の現在』の中の執筆者(池辺義則教氏)が、
カンギレムの、ある言葉の解釈を次のように書いていました(P121)。
病人は規範をもたないために異常なのではなく、一つの規範しか受けいれることができないために病人なのである。病気は健康の次元でみたときの一つの変異なのではなく、生命の一つの新しい次元である。
私は、「健康」とは、
「自分のからだの状態を知り、
その状態に、好ましい環境を用意しようという作業ができること」
なのではないか、と思いました。
これもまた、私が覚えておきたいことです。
それでは、皆様も、どうかおからだを大切にしていただき、
ご無理のないように、お過ごしくださいませ。
皆様のご健勝をお祈り申し上げております。
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
引用文献