世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「悪口」という「矢」の向かうところについて。

私は以前、

『「悪口」と「愚痴」と「批判」について。』

という記事を書かせていただいたことがあります。

 

しかし、こちらの記事の中で、「悪口」については、

「人を悪く言うことだから、

いつの日も「言ってはいけないこと」だと思います。」

ということくらいしか述べておりませんでした。

 

※もし、お目通しいただけたら幸いです。

morimariko.hatenablog.jp

 

そして今日、もう少し、

「悪口」について述べさせていただこうと思います。

 

ご存知の方もいらっしゃることと存じますが、

仏教の開祖・釈尊(しゃくそん)の教えを最も忠実に伝え、

また、仏典の中で最も古いと言われている

『スッタニパータ』という経典があります。

 

その経典の中に、 

 人が生まれたときには、実に口の中に斧(おの)が生じている。愚者は悪口(わるぐち)を言って、その斧によって自分を斬り割(さ)くのである。

 

(『ブッダのことば―スッタニパータ』岩波書店P146参照)

という言葉が載っています。

 

短く申し上げれば、

「悪口を言えば、自分を斬りさくことになる」

と説かれていると言えると思います。

 

そして、これにまつわる、次のようなお話しがあります。 

 あるとき、お釈迦様が他宗の者に悪口を浴びせられました。しかしお釈迦様は、黙ったままで相手が言い終わるのを待つと、「あなたは弓を射たことがありますか?」と問いかけ、次のような話をします。

 矢を天に向けて放っても、受け取る人がいなければ真下に落ち、自分に当たる。同じように、あなたが私に悪口を言っても、私がそれを受け止めなければ、その矢はあなたに向かうことになる……」

 

(『くり返し読みたいブッダの言葉』P30より)

このように、

自分が放った「矢(=悪口)」は、

「矢に当たる人がいない(=悪口を受け止める人がいない)」ならば、

「自分に向かってくる」のであり、

私はこれを、

「悪口を言う」ということは、「自分に向かって矢を放っている」

ということだと解釈しております。

 

因みに、このお話を最初に知った時に、

「なるほど」と思いつつも、

「横に向かって放った矢は、自分に戻ってこないのではないか?」

「風が吹いた場合、このお話は通用しなくなるのではないか?」

と疑問を持ちました。

 

しかし、私なりに考えてみた結果、次のようなことを思いました。

 

横に向かって放った矢も、

もっともっと、というふうに飛距離を伸ばしていけば、

いずれ、まるい地球を一周して、

「自分の背に刺さることになる」

と思いました。

 

そして、矢の飛距離を伸ばした上に、風などの天候も考慮し、

必ず命中することができるよう技術を上げるならば、

「ますます自分の背に命中するように矢を放っている」

と言えると思いました。

 

「矢」で考えると、非現実的な面があるかもしれませんが、

この「矢」を、「悪口」として考えると、

私は、非現実的なお話しではないように思います。

 

「矢」を「毒矢」として「煩悩」にたとえるお話しが、

仏教にはよくあるように思うのですが、

自分の放った「毒矢」が、自分の背に刺さるまで、

「矢を放った過ち」に気づくことができないことは、

ある意味、気の毒なことだと思います。

 

やはり、一番いいのは、

「矢が放たれないこと」だと思います。

 

しかし、放たれてしまった矢に対しては、

私たちは、「受け止めない」とすることが一番いい、

「ひたすら躱す(かわす)、可能な限り躱す」

とすることが一番いい、と私は思います。

 

誰かが、放たれた矢に触れてしまうと、

その矢は、放った人のところには戻っていかないかもしれません。

 

実は私は、この記事を書くにあたり、

(すでに連想された方もいらっしゃるのではないかと思いますが、)

北朝鮮のミサイルのことが脳裏に浮かんでいました。

 

「飛距離を伸ばしてきた」とか、

「技術が向上している」とか、

そういうニュースを耳にする度に、

この「矢」のお話しを思い出しておりました。

 

実際に、矢もミサイルも、放たれれば、

どこかに落ちて、誰かに当たる可能性があると思います。

ですので、それなりの備えは必要だと思います。

 

ただ、あまりに恐怖心を見せてしまうと、

恐れさせたい相手は喜んでしまうのではないか、

と私は思います。

 

また、矢を放つ人のほうに「恐れ」という「煩悩」があり、

その「恐れ」を何とかしたいと思っていて、

しかし、対処を誤って、自らますます「恐れ」を募らせ、

それが「(飛距離を伸ばすなどの)技術の向上」として表れている、

ということではないか、と私は考えています。

 

ですので、矢を放つ人に「恐れ」がなくなれば、

矢を放つことはしなくなるのではないか、

そして、「圧力をかける」などの行為は、

場合によっては、「逆効果」なのではないか、

と思っております。

 

ただ、念のために申し上げますが、

私は、世の中に、こちらが一歩譲ったら、

一歩前進してくる人(譲り合えない人)がいる、

と思っておりますので、このような観点から、

現実的には「圧力が全くいらない」ということはない、

と思っております。

 

今一度、「悪口」にお話を戻しますが、

私は、「悪口」は、

「わざわざ悪く言うこと」「悪意をもって言うこと」

だと思っております。

それは、根も葉もないことを言ったり、

人の言動や事柄を曲解して悪く言ったりすること、

だと思っております。

 

また、一見「悪口」のようではあるけれど「悪口」ではない、

ということもあると思っておりますので、

それが本当に「悪口」なのかの検討を要することもある、

と思っております。

 

そして私は、「悪口」に対して、

「受け止めない」「躱す」とすることが一番いい、

と思っているのですが、これには、

「相手にしない」「放っておく」というようなイメージがある、

のではないかと思います。

 

そこでまた、念のために申し上げておきたいのですが、

もし、「濡れ衣を着せられる」ようなことがあれば、

それはぜひとも「晴らしたほうがいい」、

と私は思っております。

 

私は、どなたも、濡れ衣を着る必要は全くないと思っております。

 

「濡れた衣」を着てしまったら、重いと思います。

ぜひ乾かして、晴らして、軽くなっていただきたいです。

 

 

お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 

引用文献

ブッダのことば―スッタニパータ』中村元 岩波書店

  ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

『くり返し読みたいブッダの言葉』山川宗玄 リベラル社

  くり返し読みたい ブッダの言葉