「悪口」という「矢」の向かうところについて。
私は以前、
『「悪口」と「愚痴」と「批判」について。』
という記事を書かせていただいたことがあります。
しかし、こちらの記事の中で、「悪口」については、
「人を悪く言うことだから、
いつの日も「言ってはいけないこと」だと思います。」
ということくらいしか述べておりませんでした。
※もし、お目通しいただけたら幸いです。
そして今日、もう少し、
「悪口」について述べさせていただこうと思います。
ご存知の方もいらっしゃることと存じますが、
また、仏典の中で最も古いと言われている
『スッタニパータ』という経典があります。
その経典の中に、
人が生まれたときには、実に口の中に斧(おの)が生じている。愚者は悪口(わるぐち)を言って、その斧によって自分を斬り割(さ)くのである。
という言葉が載っています。
短く申し上げれば、
「悪口を言えば、自分を斬りさくことになる」
と説かれていると言えると思います。
そして、これにまつわる、次のようなお話しがあります。
あるとき、お釈迦様が他宗の者に悪口を浴びせられました。しかしお釈迦様は、黙ったままで相手が言い終わるのを待つと、「あなたは弓を射たことがありますか?」と問いかけ、次のような話をします。
矢を天に向けて放っても、受け取る人がいなければ真下に落ち、自分に当たる。同じように、あなたが私に悪口を言っても、私がそれを受け止めなければ、その矢はあなたに向かうことになる……」
(『くり返し読みたいブッダの言葉』P30より)
このように、
自分が放った「矢(=悪口)」は、
「矢に当たる人がいない(=悪口を受け止める人がいない)」ならば、
「自分に向かってくる」のであり、
私はこれを、
「悪口を言う」ということは、「自分に向かって矢を放っている」
ということだと解釈しております。
因みに、このお話を最初に知った時に、
「なるほど」と思いつつも、
「横に向かって放った矢は、自分に戻ってこないのではないか?」
「風が吹いた場合、このお話は通用しなくなるのではないか?」
と疑問を持ちました。
しかし、私なりに考えてみた結果、次のようなことを思いました。
横に向かって放った矢も、
もっともっと、というふうに飛距離を伸ばしていけば、
いずれ、まるい地球を一周して、
「自分の背に刺さることになる」
と思いました。
そして、矢の飛距離を伸ばした上に、風などの天候も考慮し、
必ず命中することができるよう技術を上げるならば、
「ますます自分の背に命中するように矢を放っている」
と言えると思いました。
「矢」で考えると、非現実的な面があるかもしれませんが、
この「矢」を、「悪口」として考えると、
私は、非現実的なお話しではないように思います。
「矢」を「毒矢」として「煩悩」にたとえるお話しが、
仏教にはよくあるように思うのですが、
自分の放った「毒矢」が、自分の背に刺さるまで、
「矢を放った過ち」に気づくことができないことは、
ある意味、気の毒なことだと思います。
やはり、一番いいのは、
「矢が放たれないこと」だと思います。
しかし、放たれてしまった矢に対しては、
私たちは、「受け止めない」とすることが一番いい、
「ひたすら躱す(かわす)、可能な限り躱す」
とすることが一番いい、と私は思います。
誰かが、放たれた矢に触れてしまうと、
その矢は、放った人のところには戻っていかないかもしれません。
実は私は、この記事を書くにあたり、
(すでに連想された方もいらっしゃるのではないかと思いますが、)
北朝鮮のミサイルのことが脳裏に浮かんでいました。
「飛距離を伸ばしてきた」とか、
「技術が向上している」とか、
そういうニュースを耳にする度に、
この「矢」のお話しを思い出しておりました。
実際に、矢もミサイルも、放たれれば、
どこかに落ちて、誰かに当たる可能性があると思います。
ですので、それなりの備えは必要だと思います。
ただ、あまりに恐怖心を見せてしまうと、
恐れさせたい相手は喜んでしまうのではないか、
と私は思います。
また、矢を放つ人のほうに「恐れ」という「煩悩」があり、
その「恐れ」を何とかしたいと思っていて、
しかし、対処を誤って、自らますます「恐れ」を募らせ、
それが「(飛距離を伸ばすなどの)技術の向上」として表れている、
ということではないか、と私は考えています。
ですので、矢を放つ人に「恐れ」がなくなれば、
矢を放つことはしなくなるのではないか、
そして、「圧力をかける」などの行為は、
場合によっては、「逆効果」なのではないか、
と思っております。
ただ、念のために申し上げますが、
私は、世の中に、こちらが一歩譲ったら、
一歩前進してくる人(譲り合えない人)がいる、
と思っておりますので、このような観点から、
現実的には「圧力が全くいらない」ということはない、
と思っております。
今一度、「悪口」にお話を戻しますが、
私は、「悪口」は、
「わざわざ悪く言うこと」「悪意をもって言うこと」
だと思っております。
それは、根も葉もないことを言ったり、
人の言動や事柄を曲解して悪く言ったりすること、
だと思っております。
また、一見「悪口」のようではあるけれど「悪口」ではない、
ということもあると思っておりますので、
それが本当に「悪口」なのかの検討を要することもある、
と思っております。
そして私は、「悪口」に対して、
「受け止めない」「躱す」とすることが一番いい、
と思っているのですが、これには、
「相手にしない」「放っておく」というようなイメージがある、
のではないかと思います。
そこでまた、念のために申し上げておきたいのですが、
もし、「濡れ衣を着せられる」ようなことがあれば、
それはぜひとも「晴らしたほうがいい」、
と私は思っております。
私は、どなたも、濡れ衣を着る必要は全くないと思っております。
「濡れた衣」を着てしまったら、重いと思います。
ぜひ乾かして、晴らして、軽くなっていただきたいです。
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
引用文献
『くり返し読みたいブッダの言葉』山川宗玄 リベラル社