お釈迦様が初めて行った説法のうちの一つに、「中道」があります。
『ブッダの教えがわかる本』(P18.19)よると、
中道は、簡単にいえば極端を避けるということです。お釈迦さまは、出家されるまでは、皇太子として何不自由ない生活を送りました。これは一つの極端です。次に、出家されてからは難行苦行に進まれましたが、これもまた極端な道でした。
その結果、極端によっては悟りは得られないことに気づかれ、お釈迦さまは、極端を避けて中道をいくように決意されたのです。
と書いてありました。
また、私がよく耳にした「中道」の説明は、
「欲望のままにふるまう快楽」と「自分を痛めつけるだけの苦行」の
両極端を避けて、偏らない、バランスのよい生き方をすること、
というものでした。
そして、よく注意書きのように添えられている言葉は、
「中道は、どっちつかず、という意味ではない」ということでした。
さらに、「ソーナの琴」という、「中道」を説く、
私が好きなたとえ話がありますのでご紹介させてください。
ブッダの弟子に、ソーナという修行に熱心な比丘がいました。……出家後はいつも足から血が流れているほど真面目に修行を続けたにもかかわらず、ソーナはいつまでたっても覚りを得られず悩んでいました。その様子を見たブッダは、昔はヴィーナ(琵琶の原型といわれる楽器)の名手だったソーナに言いました。「弦を強く締めすぎても緩めすぎてもよい音色は出ません。調和の取れた締め方をして初めてよい音が出ます。修行もそのように中道を心がけなさい」。この教えを聞いたソーナは、しばらくして覚りを得たといいます。
(『もう一度学びたいブッダの教え』P139より引用)
「強く締めすぎても緩めすぎてもいない、調和の取れたところ」。
この、「中道」という考え方を、私は好んでおります。
ですので、できることならば、いつも「中道」を歩みたいですし、
日常生活の中に、具体的に「中道」を取り入れることができたら、
とも思っています。
ただ、「中道」を思い出すのは、何か不都合なことがあったとき、
が私は多いです。
例えば、ある人に嫌味なことを言われて、怒ってしまった私には、
心に不都合が生じています。
そして、「中道を忘れていた……」と、じわじわ思い出します。
このケースであれば、
嫌味に、嫌味で返したら、「嫌味」に偏っていて、
「中道」ではないことになりますよね。
ですので、
相手に「そういうことは言ってほしくありません」と伝えることが
「中道」だと私は思っています。
「言われっ放しの私ではない!」という「怒り」と、
「あなたは嫌味を言わないほうがいい」という「親切心」(!?)が
両端にあるとすると、「指摘する」ことが、私なりの「中道」になる
といった感じです。
「中道とは、相反するような気持ちの触れ合うところにある」
と私は思っています。
本当は、探すことなく、
「中道」が、自分が取る行動の当然になっていることが私の理想です。
しかし、忘れていたことに気づいた後からであっても、
「中道探し」は、私にとってけっこう楽しい作業です。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
引用文献
・『ブッダの教えがわかる本』服部祖承 大法輪閣
・『もう一度学びたいブッダの教え』田上太秀(監修) 西東社