先日(11月24日)は、関東で、
積もるほどの雪が降りましたね。
11月の東京都に雪が降るのは、
54年ぶりのことだったそうですね。
私は千葉県に住んでおりますが、
やはり、バス・電車が遅延・運休し、
雪の影響を受けました。
そして、
いつどこで起こるかわからない地震も多い昨今。
そのような日々の中で、
私は、『菜根譚(さいこんたん)』という、
中国の古典に出てくるある言葉を
思い出していました。
[訳文]を先にご紹介させていただきます。
(『1分間でわかる「菜根譚」』P193より)
わが身はひとつの天地である。喜怒も正当で、好き嫌いにも原則が通っているようにすれば、無理のないやわらなか道理で自身を貫ける。
[読み下し文]は次の通りです。
吾が身は一小天地なり。喜怒をして愆らず(あやまらず)、好悪をして則(のり)有らしめば、便ち(すなわち)是れ燮理(しょうり)の功夫(くふう)なり。
毎日には、
気温の高い日もあれば、低い日もあり、
ちょうどよい気温の日もある……
晴れの日、雨の日、風の日、雪の日があり、
晴れていながら雨が降る日もある……
そして、大地が揺れる日もある……
このような、様々な毎日があるということは、
「小さな天地」である「わが身」にも、
様々なことがあり、いろいろな気持ちになるのは、
「とても自然なこと」ですね。
暖かい気持ちの日、寂しい気持ちの日、
怒りの日、勢いのある日、楽しい日、無心の日……
笑いながら涙を流す日は、
晴れていながら雨が降る日に、
似ているような気がいたします。
自分の心が揺れる日は、
大地が大きく、また、小さく揺れる日に、
似ているのかもしれません。
また、「晴れの日」と言っても、
太陽のまぶしさと共に明るい気持ちになる日もあれば、
太陽のまぶしさに負けそうになる日もあると思います。
そして、「雨の日」と言っても、
しとしと降る雨に悲しみに誘われる日もあれば、
しとしと降る雨に心落ち着く日もあると思います。
先ほどの『菜根譚』の中にあった、
「喜怒も正当で、好き嫌いにも原則が通っているようにすれば、無理のないやわらなか道理で自身を貫ける」
という言葉から、
私は、どのような日でも、一番大事なことは、
素直な気持ちで、「自分」に基づいて行動しているか、
ということなのだろうと思います。
それはつまり、
喜ばしいことを、ちゃんと喜んでいるか、
怒ってもおかしくないことを、ちゃんと怒っているか、
ということであり、
また、誰かの「晴れ」に合わせたり、
誰かの「雨」に合わせることを、
自分は、本当はしたくない(かもしれない)のにしていないか、
ということでもあります。
(自分が本当にそうしたい(合わせたい)ならいいけれども、
したくないなら、しないほうがいい、と私は思います。)
もちろん、喜怒の表現は、
場合によっては控えるべきときがあると思います。
ただ、「こういうときに喜ぶ」「こういうときに怒る」
「こういうことが好き」「こういうことが嫌い」という、
「自分の感覚」を持っていることで、
自然に生きることができる!
無理なく生きることができる!
と『菜根譚』は説いている、
と私は解釈しています。
また、ある事柄に対し、
このままの自分でいいと思うならそのままで、
このままの自分ではいけないと思うなら変えていく、
という、そういうことも、素直に「自然に」するといい、
という意味も含んでいると思います。
そして、「生きづらさ」があるときには、
自分の気持ちに嘘をついていないか、
自分の本心に気づかない振りをしていないか、
自分の行動が自分の気持ちに基づいていない不自然さがないか、
と疑ってみるといいのではないか、
と私は考えています。
これは、「自分を見失わない生き方」なのだと思います。
「怒ってはいけない」「好き嫌いがあってはいけない」
と聞くこともありますが、
それにとらわれなければいいのだと思います。
「理由」があるなら、私はいいと思っています。
『菜根譚』が解くように、「原則」が通っていれば、
いいのだと思います。
私は、さまざまな日々の中で、
「わが身は小天地」という自然な態度で、
「本当の私はこうである」「本当は私はそうしたい」
という自分に基づいて、
素直に喜んだり、素直に怒ったりしながら、
毎日を過ごしていきたい、と思っています。
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
引用・参考文献