世の中の観察日記

世の中を見て、思ったこと・考えたことを自由につづって参ります。このブログを読んでくださる方々と、「安心」を共有することを望んでいます。

「信じること」について②。

昨日に引き続き、「信じること」について述べさせていだたきます。

 

私は、昨日、「信じる」とは、「この人にだまされても、後悔はしない」という思いのことだと述べました。

 

そして、今日、私が述べようと思うのは、

誰かを「信じる」か「信じない」かは、

「自分に対して」した「信じる」がベースになっている、

と思っているということです。

 

人は、誰かを信じるにしても、信じないにしても、

少なくとも、「自分のこと・自分の判断」は信じており、

それが先になされている、と私は思っているのです。

 

例えば、私は、いつも変わらない人を信じることがあります。

「こういう人を信じてもいいんだ」という判断は、

その人を信じる前に、私の心で行われているはずです。

 

ですから、

先に、自分の判断を信じて、

それから、その人を信じる、

という順番になっていると思うのです。

 

また、「あの人のことは信じない」と思うこともあると思います。

もちろん、これも、「信じない」と判断した自分のことを

信じていることになります。

 

さらに、自分なんかより、他の誰かのほうが

よっぽどあてになる、よっぽど頼りになる、

ということもあるかもしれませんが、

その誰かを「あてになる」「頼りになる」と判断したのは

「自分」です。

やはり、自分の判断を「信じている」ということになるわけです。

 

あとになって、自分の判断はまちがっていた、ということも

あると思います。

その場合は、これから判断力をアップさせる努力をする、

ということでいいと思います。

 

また、世の中には、

優しい面持ちで、あたかも「私は信じられる人間ですよ」

という装いの人がいますので、

見破るのが難しいことがあると思います。

 

結果的に、誰かにだまされたり、裏切られたりすれば、

とても残念なことですが、

しかし、

優しい面持ちの人を「信じよう」と判断した自分のことは、

もちろん責める必要はなく、

むしろ、「私って、けっこういい人だ」

と思ってちょうどいいと思います。

 

最後に、私が申し上げたかった「信じること」についてを

整理してみます。

 

「信じる」とは、

自分以外の誰かに対しては、

「この人にだまされても、後悔はしない」という思いのことであり、

また、「信じる」は、

自分に対してすることがベースにあるから、自分に対しては、

「私にだまされても、後悔はしない」という思いのことになります。

 

「私にだまされても、後悔はしない」というのは、

わかりにくい表現だと思いますので、少々言い換えてみますと、

どのような結果になろうとも、

「私は、これで、いいのだ」

という思いだと、表現することにしたいと思います。

 

誰かを信じるにしても、信じないにしても、

結果的に、信じてだまされても、

自分に対してした「信じる」がベースになっていると思うと、

私は、おおかた、「私は、これで、いいのだ」

という思いになります。

 

 

お読みくださいまして、ありがとうございました。

 

※2015年6月11日に、『「信じること」について①。』の

 ブログ記事へのリンクを下記に貼らせていただきました。

 合わせてお読みいただけたら幸いです。

morimariko.hatenablog.jp